「一時的な高揚感」を追うのは、「水面のきらめき」を追う子どもの姿に似ている
翻訳原文
この世は常に
無常(うつりかわり)に支配さる
何の笑い
何の歓喜(よろこび)ぞ
おん身らはいま
暗黒(やみ)に覆われたり
何故に
燈明(ともしび)を求めざる
(『法句経』146,友松圓諦訳・講談社学術文庫)
現代語訳
「この世のすべては常に移り変わる」
私たちの生活は、そのような大原則にしたがって成立しています。
(その事実のまえで)
目の前に映る一瞬の楽しみが、いったい何の助けとなるのでしょう
目の前に映る一瞬の喜びが、いったい何の助けになるのでしょう
私たちの周りでは、もうすぐ夜の帳が降りはじめます。
はたして
(闇夜を照らす)真実の光を求めない理由など、どこに存在するのでしょうか?
ひとこと解説
「一時的な高揚感」や「表面的な成果」を追い求めることは「罪」にあたるのでしょうか?
わたし自身は、その行為自体は「罪」にはあたらないと考えています。
「一時的な高揚感」や「表面的な成果」は、海や川の「水面のきらめき」とよく似ています。
キラキラと輝く水面は、あくまで太陽の光を反射しているだけにすぎません。
それと同じように「一時的な高揚感」や「表面的な成果」は、物事の本質ではありません。残念ながら、単なる「幻想」です。
「幻想」は、ほんの一瞬しか姿かたちを留めませんし、永遠に自分自身の手中に収めておくことは不可能です。
それにも関わらず、その事実を忘れ、夢中になって「幻想」を追い求める人間の姿は、我を忘れて「水面のきらめき」を追い求める子どもの姿によく似ています。
「幻想」を追う純粋さに「罪」はありません。この上ない「喜び」も間違いなくあるでしょう。しかし、身を滅ぼす「危うさ」をはらんでいることは、まぎれもない事実です。そこから目を背けたままではいられないのです。
不用意に水面を掻きまわし、水中へと潜り、空虚な「水面のきらめき」を追い続けることに夢中になっているうちに、
いつの間にかずぶ濡れになり、すっかり心も身体も凍えてしまうかもしれません。
いつの間にか岸から遠く離れ、抗いようのない波にさらわれてしまうかもしれません。
いつの間にか日が落ち、帰り道がわからなくなってしまうかもしれません。
キラキラと光る水しぶきをいくら浴びようとも、キラキラと光る水面に身を浸そうとも、その人間自身がキラキラと輝き始めることはありません。
日が落ちればあっという間に「水面のきらめき」が消えさってしまうように、「一時的な高揚感」や「表面的な成果」は、一定の時期が過ぎればたちどころに価値を失ってしまいます。
まだ時間と心と身体の余裕があるからこそ、目の前の刹那的な楽しみを追うのではなく、世の中の真理を探求する姿勢を打ち出しましょう。
キラキラと光る刹那的な物事を追いかけるのではなく、自分自身の中に真実の光を見出すのです。
世の中の真理に基づいた理念と行動は、行動する本人の心とその周囲の人々を、いつまでも明るく照らし続けます。
合掌
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